えだまめの会は南知多の文化サークル。
今回は講師を招いての勉強会です。
 第77回のレポートです。15人の出席。
加藤さんの太鼓の演奏、ジンバブエの歌もステキでした。
(第77回)
アフリカの
夜と
音楽と


講演レポート>
講師の講演メモを紹介
します。

とき 616日(金)夜730分〜

ところUS文化教室(名鉄内海駅前

講師 加藤元研(げんと)さん
元青年海外協力隊員、常滑市立鬼崎中学校・音楽講師

◇内海の加藤さんは、平成97から2年間、アフリカのジンバブエ共和国の小学校で音楽教師として勤務。現地の子供たちにとって歌や踊りは生活の一部だとか。青年海外協力隊での体験やアフリカの音楽について、珍しいアフリカの楽器の演奏も交えて語っていただきました。

1.青年海外協力隊員の志望動機について
アフリカの音楽を生でふれてみることにより,人間の幅を広げたかった。そして,自分といったものが異文化の中でどう通用するか試してみたかった。
その中で,相手の国に自分の技術が必要とされるのであれば、お互い良いところを吸収しあえれば良いと思った。
別段ジンバブエにこだわっていなく,アフリカであればどこでもよかった。

2.ジンバブエの概要

@国旗について

緑は鉱物,黄色は農作物,赤は血,黒は大地を意味する。また,左に

描かれている鳥は幻の生き物ジンバブエバードである。

A人口について

約1300万人で日本の10分の1である。都市に人口の約半分が住んでいる。

B面積

39万平方qで日本より少し大きい

C気候

雨期と乾期に分かれている。

D人種

黒人99%弱(ショナ人,ンデベレ人など),白人1%弱,その他1%未満(東洋人インド人など)

E任地クウェクウェについて

ジンバブエに5つある都市の第5番目の都市である。人口約5万人強。

名前の由来は蛙がクウェクウェなくことからその名がついた。主にショナ族が多い。

(他の都市,町の名前と意味  首都ハラレ:眠れない街,ブラワヨ:虐殺の地,ムタレ:黄金のベルト、グウェル:集会所,カドマ:静かな所 マシンゴ:遺跡)

F言葉について

首都ハラレを中心にしたショナ族のショナ語と,第二の都市ブラワヨを中心としたン デベレ族のンデベレ語に分かれる。他にもズール語,トンガ語などがある。

 <ショナ語の特徴>

日本語に似ており母音が一緒で「あいうえお」である。

例1 日本語でも使う言葉:草を「そら」,象を「ぞう」

例2 英語がなまったもの:モーターカーをモトカリ,ティーチャーをチィチャ 自転車を   バシコロ

例3 音が名前になったもの:バイクを ムドゥドゥドゥなど                  

Gジンバブエ人の日本人感

金持ちで物をいろいろ持っている。

コンピューター,車などジンバブエに輸入されていることを知っているが,どこに日本があるか知らない。東洋はみんな中国で,日本は中国の一部だと思っている。日本人のアフリカ人に持つ間違ったイメージを持つのと一緒で,空手は日本人(東洋人)全てが出来ると思っている。ストレートの髪にあこがれをもっている。 

Hジンバブエ人の特徴

貧乏だがあまり深刻ではなくいつも笑っている。雨が降っては笑い,犬が歩いては笑う。ジンバブエの外国人がおはようと現地語でいっても笑う。おしゃべりが好きだが,話す内容はたいしたことではない。

時間に関する考え方はよくいえばおおらかで,まず約束の時間には来ない。下手をすると,日が暮れてもこない。翌日会った時の理由は,時計がなかった,そんな約束はしていない,雨が降ったなどである。時間におくれても,アフリカの大地は文句を言わないなんというのもあった。初めこそぶーぶー言っていたものだが,段々慣れてくると,こちらが遅れてもいいかというふうになってしまった。不思議なことに罪悪感が日本にいたときのようにかんじなくなってしまっていた。

また,将来のことより,今が楽しければよいと考えている。平均年齢57歳で,病気や事故で死が身近にあるからだからか。町に出てもあまりお年寄りを見かけない。

Iジンバブエの危険度

危ないとき,危ない所へ行かなければ大丈夫である。昼間の学校は全然安全であったが,夜は町中は物騒で歩くときは現地人と行動していた。銃は持っていないが,泥棒,スリ,置き引きは都会にいくほど多い。 

Jジンバブエの観光地

世界三大瀑布の1つ,ビクトリア・フォールズ。日本でもツアーが組まれているらし謎の遺跡,グレート・ジンバブエ。四百年前のジンバブエの首都はここであった。象がたくさんいる,ゴナレゾウナショナルパーク。大きな川,ザンベジ川など。

 <ザンベジ川でカヌー下りをしたときのこと>

子どもをうみ終えたばかりの母親カバのテリトリーに入ってしまい,カバが襲ってきた。逃げたと思ったら象に襲われた。危ない所には注意し,大自然をなめてはいけないと反省した。

3.学校での活動

現地人の小学生1年生から7年生まで,一人の音楽の教師として教えていた。

1,2年生はショナ語で,3から7年生には英語で教えていた。高学年になればなるほど,英語を使う頻度が高くなる。

生徒数(黒人,白人,インド人,ハーフ,クウォーター)1,100人くらいで,教師数(全員黒人)は約35人。生徒によっては,タンザニア,南アフリカ共和国,ザンビアから来る子どももいた。

学年に3から4クラスあり,1クラス30分の音楽授業が1週間に一度。午前が授業で午後はクラブ活動または家の手伝い。

歌と踊りは生活の一部で授業は合唱がほとんどであった。英語の歌,日本の歌,アフリカの歌を伝えたが教科書はなく手作りであった。リコーダークラブをつくったが,興味をもつ生徒は少なかった。が,やはり,太鼓など現地に根付いた楽器を使うのは,好きであった。学校外では,音楽の教師がいない所へ出向いたり,プライベートでピアノ,バイオリンレッスンをした。1年のサイクルは3ヶ月授業で1ヶ月休み。

4.帰ってきてからの自分の感想

 日本の良いところ,悪いところが見えてくるようになり,それぞれを比較してしまう。日本人のきめの細かさや言葉の繊細さ,建設的な考え方はすばらしいと改めてかんじた。例外はあるが,日本は変化,創り出すことを好むが,ジンバブエ人は何もせず楽して変化を求めない。その結果,ジンバブエナイズされてあきらめやすくなった反面,よく笑うようになってかえってきたと思う。着いて3ヶ月は慣れるのにきつかったが,慣れるとアフリカでのトラブルを楽しめるようにまでなっていた。 日本でへらへらしていると,あまりよく思われないが,あちらではふつうであった。また,断るときはイエス,ノーをはっきり言っていたので,帰ってきた当初,友達に変わったと言われた。

 ジンバブエでは,餓死で死ぬことはないが,不断栄養を取っていないので病気にかかると,命を落とすことがある。日本で残される残飯を見る度に,ジンバブエの生徒に持っていきたい衝動にかられた。行く前は,人ごとのように自分の周りにしか興味がなかったが,今ではアフリカの生徒を思い出しつつ気になる国の1つになっている。(加藤元研さん記) 

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