えだまめの会#78 篠島と木簡     

第78回「篠島と木簡」
と き 2000年28日(金) 
730分〜9時

    ところ US文化教室(名鉄内海駅前
講師 山下勝年さん
知多古文化研究会会長
南知多町立師崎小学校長

夢のみに継ぎて見えつつ小竹島の 磯越す波のしくしく思ほゆ

この歌は、はっきり愛知県の篠島の歌だということが、最近では認められまして篠島へ行きますとこの万葉の歌碑が公園にあります。
ところが、これを篠島の歌だということをはっきり学会に論文を出して証明したのが,文学博士の松田好夫先生なのですが、その先生より前にこの歌は篠島の歌ではないかと最初に気づかれたのが折戸耐次さん(現在の篠島郵便局長の祖父)です。

折戸耐次さんという方は大変な学者でして、亡くなられたときに、「郷土誌みなみ」が特集を組みました。篠島村の村長さんをやられた方でもあります。この折戸耐次さんが昭和初年の22、23歳ころ、岩波文庫の新訓万葉集を読み漁るうちにということですから、ただものではない。「小竹島」を「しのじま」と読んだらどうだろうと考えたのですね。

小さい竹と書いて「ささしま」と読んだのですが、篠島の篠も小さい竹と読みます。
「磯越す波のしくしく思ほゆ」、荒磯を越える波のように後から後からある人のことが思い起こされる。これが、琵琶湖の竹生島では、磯を越えるイメージがない。
篠島だったら、荒磯がありますし、これはきっと篠島だと思ったわけですね。

折戸さんは著者である佐佐木信綱博士に手紙を出しました。佐佐木博士は、大変な学者で、権威のある方なのですが、田舎の文学青年が手紙を出しても返事がくるわけがない。ところが、佐佐木博士が「評釈万葉集」を出したその中に「尾張国知多郡知多半島に篠島という島が或いはこれか」と注釈がのったのです。

折戸さんはすごく喜んだと思いますよ。一方、愛知学芸大学の松田先生もこれは篠島のことであるということを研究して学会に発表したわけですが、学会で万葉集のことが認められるというのは大変なことで、日本の文学界の大問題になるようなことなんです。だから、この歌が篠島の歌だなんて学会ではなかなか認められなかったわけです。

特に万葉時代の篠島の歴史的な位置です。奈良の都で歌を作った人たちと篠島というのがあまりかけ離れている。都の人には知られていない島なのではないか。今でも僻地ですからあまりにもかけ離れている。それが、ネックだったんですね。そして、松田先生が「万葉集・篠島考」という大論文を出しまして、これ私も持っていますが、すごい論文です。そして、折戸さんも一生懸命に篠島をPRします。ところが、なかなかそれが認められなかった。松田さんも折戸さんも亡くなられましたが、篠島の知名度を上げようと生涯をかけた人がいたということです。

日本の古代史の権威の方が篠島にみえ、「奈良からみて篠島は大変に有名なところです」と言われたんです。なぜ篠島が有名かといいますと、昭和38年夏のことだったのですが奈良の食事をつくる台所、井戸端を掘っておりましたら、思いがけないものが発見されました。これが「木簡」だったのです。その中に「参河国幡豆郡篠島海部供奉五月料御贄佐米楚割六斤」という木簡が大量に発見された。

特に篠島、佐久島の木簡だけで37点ほど出てきました。まず、このニュースが発見されますと一番喜んだのが、万葉研究者たちですね。さっきの折戸さんや松田さん。篠島の名前が万葉集以外の奈良時代の文献に出てくる。篠島は奈良から見て知らない場所ではないのですね。

ここからまた大変なことになるわけですが、昭和41年には藤原宮で篠島に関するより古い木簡が発見されます。「三川國波豆評篠島里一斗五升」と書いてあります。「一斗五升」は塩ではないかと思われます。前の「参河国幡豆郡篠島海部供奉五月料御贄佐米楚割六斤」を見ますと、篠島は参河国幡豆郡に属します。

海部というのは島に住む人全体を指します。その人たちがお供えする5月料、御贄(おんにえ)というのは神に供え、また朝廷に献上する奉げもの、特に食料に供する魚、鳥の類です。佐米(さめ)楚割(そわり)六斤、サメの干物を六斤。六斤の計算はいろいろありまして、仮に600gとしますと3.6kgを月の税金として収めていたことになります。この木簡は税金として奈良の都に出した「荷札」のようなものですね。

7世紀〜8世紀、篠島は参河国幡豆郡に属していました。漁業を生業とする海部集団がいたことが確実に把握できるようになりました。それから、篠島だけでなく佐久島とか日間賀島という木簡も出てきました。この三つの島にこういう海部たちがいたというのがわかったのですが、日間賀島、佐久島には古墳がたくさんあるんですね。あの小さい島になんと35基もの古墳があります。佐久島には45基。二つの島で80基もの古墳がある。しかし、篠島には少なくて三つしかありません。

これがどれくらいすごいかというと、知多郡全体で古墳がざっと70基といわれています。東海市、大府市からずっと南まで、その内35基が日間賀島、半島全体の半分。武豊や半田にも古墳がありますが、掘ってもたいしたものは出てきません。せいぜい壺くらい。
日間賀島の古墳では、数倍もの遺物が出てきます。土器、貴重な鉄製品、鉄の刀とか金のイヤリング、ヒスイの勾玉とか出てきます。しかも釣針が出てくる。大きな釣針です。何を釣ったかというとサメを釣ったものだろうと思われます。

古墳は5世紀後半から6世紀ですから、奈良時代より200年も前にすでに日間賀島ではサメ釣の釣針が使われていた。私の師匠でである杉崎章先生は「平城宮木簡からもサメということが出てきますが、すでに古墳時代から日間賀島にサメを釣る技術があったのではないか」ということを釣針から予想しています。

しかし、年代幅が広すぎるし、釣針だけだったものですから、なかなかわからない。もう一人、磯部幸男先生は「日間賀島の古墳は特殊で、石を並べて石室を作ってあるが、その中に石棺がある。これは、九州に多くあり、瀬戸内にもあり、点々と九州〜三河湾に分布しているので、この古墳を作った人たちはかなり広い文化圏を持っていて、海の道があり、交流をしていたのでは」とおっしゃっています。

古墳を作った人たちの子孫がたぶん奈良の都にサメを納めた人たちであろうと思われるわけです。ここでサメ(佐米)についてですが、サメは身に独特のアンモニア臭があり(排泄器官が未発達で血液中)に尿素を含むため)、いくら魚好きな日本人でもこれを生で食べたりしません。でも干物にすると結構おいしいそうです。もう一つ、古代ではサメは霊力のある魚としてみられていた。おそらくネズミザメやヒタチザメとかが、楚割にされたのでは。サメがもしそんなに貴重な魚であり、重要な海産物であるとしたら、サメを年間を通してとる技術を持った人たちに贄を課した。

贄の地が篠島であると考古学的に立証するものは、日本の古代史そのものにかかわる一級資料です。こんな田舎にいながら日本の古代史の中枢にかかわる問題をテーマにできるということは幸せなことです。
なぜ篠島かということで、我々がイライラしていた頃、昭和60年、篠島では大変な貝塚が見つかりました。神明社という神社の社務所を建て直す工事がありました。そのとき、島民の方から、穴を掘るからと連絡が入り、境内を掘ったらいろいろ出てくるだろうと期待をしていました。

玉砂利をはずしたら、すぐ貝塚が出てきました。中世の室町、鎌倉ですね。そのうち、平安時代、奈良時代、それから古墳時代とどこまで掘っても貝塚でした。とうとう古墳時代、弥生時代まで、地上から3m。人骨も7体出てきて、さらに下を掘り縄文時代の貝塚まで、いきました。神明社貝塚は地表面から5.5mもある大貝塚です。

一番驚いたのは、たくさんの魚の骨が出てきたことです。それから、アシカなどの海獣の骨、鯨、ウミガメの骨、魚はサメ、マダイ、カツオ、マグロなど、外洋性の魚の骨だということがわかってきました。しかもその中に釣針が出てきたのです。この辺では唯一、3000年も前にすでに外洋の魚を捕まえていたということがわかりました。

回転式離頭銛(もり)というのが出てきました。獲物に貫入した後、索(なわ)のついた銛頭が柄からはずれ同時に回転して抜けなくなるよう工夫されたものです。この銛で何を捕ったかというとサメです。贄を課したとして、篠島が他の地域よりも優れた技術を持っている地域だったということです。篠島というところは、歴史的にみて大変なところだったということですね。

この他にも日本書紀の中に「持統天皇が三河に出でまして」ということがのっておりますが、出でましてとはレジャーですね。伊勢から船に乗って島へ行ったのでは。

神明社貝塚から、鹿の骨に直角に筋が30本彫ってあるものが出てきました。韓国の熊川というところの貝塚からもこれと同じものが出ています。調べてみますと、韓国の斉州島などでもたくさん出ていて、日本でも北九州、瀬戸内海、三河湾でも数点出ています。これは実用品ではなく、何か占いに関係するものではと研究者はいっております。

そうすると韓国と三河湾が、弥生文化の本流とは別に何か関連があったのではと思います。調べてみると、志摩から出した「調」に「トムラあわび」というのがあり、トムラというのは、韓国・斉州島の地名です。篠島の人たちは、弥生時代には東北地方の文化を受け、古墳時代から古代においては西日本の影響を受けた。

ところが、弥生時代、古墳時代の外洋漁業の中心は玄海灘です。朝鮮半島南部と北九州が最も栄えました。明らかに篠島はその時代の最先端の地域と交流し、技術を持っていた。そんなことがわかる遺跡は愛知県では篠島の神明社貝塚だけです。彼らは相当な行動力を持っていたんです。

豊かな漁場と最先端の技術を持ち、すでに奈良時代以前から頭角を表していた。だから篠島の人たちはもっと自信と誇りをもって「詩と史の島」をPRしてほしいと思います。
 (文責・黒田吉生)   ※講師の肩書きは当時
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