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アフガンの子供達 |
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パキスタンの兵士達 |
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カイバル峠 |
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学校の建設現場 |
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アフガニスタン、カブール空港は戦闘が終わって2年を経る今でも、飛行機や戦車等々と思われる残骸の山があり、市中は90%以上の家は破壊され、その崩れ落ちた土塀の中に人々は生活していた。
しかし、車の数はものすごく、ポンコツ車と人と埃で市中は充満していた。一年前は、物貰いが一杯だと聞いていたが、そうした子供達は、ほとんど目にすることはなかった。
南の方のカルディーズという村を訪ねていたとき、後になって新聞で知ったのだが、ドイツとカナダのNGOの人達が4人殺された、ということを知り、平和とは未だ縁遠い、まだまだ闇を覆った危ない世界だと思った。
ここに孤児の為の学校を作ろうとする目的に賛同して今回の旅に参加したものの、この国情で立派な建物は、願いとしては理解できるものの、実際の建設には、随分無理があるように思った。
建物よりも、まず直接的な困窮する人々への救済の手を差しのべることが、何よりもまず必要だろう。とにかく、日本の常識では総てが通じない国であり、目の前には人々の常識外の生活の実情があった。
こうして、とにかく帰路につく予定だった筈なのに、なんと飛行機が2時間半も前に発ってしまい、私達は急遽、車で危険度真っ赤だといわれているカイバル峠を越えて、パキスタンに入ることになった。何故なら飛行機は、一週間に1便しかないからである。
しかし、途中まで険しい道を来たものの、国境を越えるには、もう時間ぎりぎりであり、もし越えられないまま、国境に1泊することになれば女性はボロボロにされてしまうだろう。かといって夜の道を引き返せば攻撃されうことも有る・・・。ということで、その日はカブールに引き返した。
次の日、再度カイバル峠越えに挑むことになったものの、無事国境を越える為の手配は大変なことのようであった。軍の有力者に賄賂を渡し、パキスタン側にも迎えの車を頼まなければならない。私達は一切を現地の人の成すがままに従うより他に道はなかった。
手配され迎えに来たレンタカーは、トヨタハイエースのポンコツであり、運転手は麻薬常習者の様であった。それでも、この運転手は国境近くまで来た所で、対向車線の大型トラックが前をびっしりと詰めてしまい、とても前に進めない中をクラクションで旨く大型車の運転手との意思の交換をしながら、見事に大型車の間を通り抜けて見せてくれた。これには、感服もし、国境越えが出来たことを心から感謝したい思いが湧いた。
こうしてなんとか無事にパキスタン、イスラマバードのホテルに着いたのは、真夜中の1時過ぎだったのである。アフガニスタン、カブールを発ったのは、午前10時半であり、この間(14時間半)、なんと誰一人、小用を催すものはいなかった。
イスラマバード空港で偶然に帰りも一緒になることになった日本大学の先生の話では、「自分達はカイバル峠越えをして帰ろうと思っていたが、NGOの人が殺されたり、ビンラディン生存が噂され、外国人は全て殺せという指示が出されているということを耳にして、急遽飛行機にして帰った」、ということだった。
なんと私達はそうした噂を耳にすることもなく、危険度真っ赤のカイバル峠越えをして、脱出してきたということになるのだ、ということに改めて驚いたのである。
こうして、無事帰り着くことが出来た私達には「復興を目指すアフガニスタンだった」と思うこともできるものの、「一つのことが起きてしまえば、それもまた当然だ」とも言える、極めて危うい貴重な旅だったのである。
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